提言・調査・報告
声明「あいちトリエンナーレ2019・「表現の不自由展・その後」の中止について」[2019.08.29]

8月3日、「表現の不自由展・その後」の中止が決定されたこと、その原因が多数の脅迫めいた言説等によるものであることを、深く憂慮します。

美術は、自分の経験、思索、感情を、ある形に表現します。また、表現することで思索を続けます。作品と呼ばれる表現は、ある意味で初めから正しいわけではなく、その価値は世界に投げかけ、見られること、聞かれること、感じられることで、世の中に「場」を得て、初めて作品として成立すると言えます。時に、批判や反対もあり、同意や共感もあり、たくさんの眼差しの交差の中で、作品は生まれていきます。

この度の展示中止は、作品がおかれ、人々に評価されるその場をうばってしまいました。同時に、たくさんの脅迫等によって、本来私共がもっていた作品の意味や主張を評価する「場」に対しての信憑を自ら放棄してしまったのです。脅迫され、表現をおさえなければ、私共は正しい判断ができないのでしょうか。時間はかかるかもしれませんが、たくさんの眼を経て、作品の良しあしやその主張の当否が最終的に判断されることを私共は信じています。それだけに、なぜ、きちんと対象を見ようとする場を失ってしまうのか、返す返すも残念です。

他方、この度の展示中止に際しては、公共の場と表現の関係性はどうあるべきかが問われています。国や地方公共団体の運営する施設は、公共の施設であり、行政が管理しています。税金で運営されていることから、市民の共有施設であるといえますが、管理責任は行政にあります。

愛知県は「表現の自由」の観点から、表現内容には立ち入らず、結果として観覧者の「安全管理」の懸念から展示の中止を決定しました。昨今、公立美術館等で政治性が指摘され、作品撤去となるケースが時折問題となっています。対立を避け、平穏でフラットな空間を「公共」に求める流れに対し、愛知県が一歩踏み込んで、受け入れる「表現」の幅を広げようとした姿勢は評価できるものです。しかし、この展示に対する反応の大きさを見誤り、足元をすくわれ、結果的に「表現」の側に立つことの困難を印象づけることになりました。

愛知県は、事前にこの度の展覧会の主旨が、公共の場と表現の関係を拡張しようとする試みであることを周知すべきでしたし、これに伴う反対意見や議論への対応、脅迫等の違法行為に対する組織的な対応をも展示のプログラムに織り込むべきではなかったかと考えます。現在、第三者委員会による検証が行われていますが、展示の再設定が可能となる方途はないか、早い結論が待たれます。

この度の問題は、政治の世界から展示の中止を求める声があがったことが切っ掛けとなりましたが、理解への試みの以前に、むしろその対象を見ないことを求める人たちの大きな波が直接的な理由となりました。しかし、これらの一方向の主張を支える根拠が、この先未来に向けて同一の価値を持ち続けるかは、全くわかりません。全体で同一方向に流れることには、状況の変化に応じて時宜にかなう判断を行いうるものか、危惧を感じます。

美術を含む表現は、その多様性こそ状況の変化に応じた柔軟な考え方を生み出す土壌となります。様々な状況を前に、多角的な視点から対応を考える世論の形成に資するものであり、ゆえに私共一人一人の信念と反対のものをも担保することが、結果として公の利益につながるものと思われます。振り返ると、かつて日本は、ほぼすべての国民が一つ方向を向き、結果として途中で修正することができず痛ましい結果を迎えました。その轍を踏まないためにも、表現の多様な場を守る必要があります。この点をくれぐれもご理解いただきたいと切に願います。


一般社団法人 日本美術家連盟
理事長   山本 貞
事務局長  池谷 慎一郎